小説 多田先生反省記
23.転宅
我が家は僅か3部屋しかないというのに、いつだって小さいのから大きいのまで、ゴシャゴシャと屯(たむろ)していて碌に勉強ができない。大学にはきちんとした研究室が一つ宛がわれているのだから、そこで気兼ねなくのんびりと研究に励んでいればよいのだろうが、どんなに息を忍ばせていても学生たちは誰彼無しに気配を察して遣って来る。そうなれば喜んで話し相手になってしまって、一向に仕事が捗らない。論文は何とか書いてはいるものの、ゴミみたいな代物のような気がする。一人で公団住宅に引っ越した時にはさしたる家財道具も無くて白い壁がやたらと広がっている生活だったのだが、今ではいろんな家具が溢れ始めている。碌に読む暇もないのにせっせと本を買い込んでいるので、玄関脇の書斎にしている部屋の入口の半間の隙間の壁にも本棚を置かざるを得なくなってしまった。どこにいても箪笥やらソファー、本棚に押し潰されそうで、今少し間取りの多い家に引っ越さなくてはならないような気になってきた。新聞の折り込み広告を丹念に見るようにしているのだが、建売住宅では私たちの生活に叶うような物件は見当たらない。折しも数年前に日本列島改造論なる公約を立ち上げて、総理にのし上がった政治家の煽りで、大都市中心の物の流れは地方へと分散し始め、その後オイルショックなるものによってトイレットペーパーがなくなる、などという流言飛語によって世間の皆さんがスーパーマーケットにトイレットペーパーを買いに走った時代でもあった。博多の土地も鰻上りに値上がりの傾向を見せている。
私たちは新聞に挟まってきた一枚の折り込み広告に目を引かれた。今のアパートから少しばかり背振山に向かった土地に分譲住宅を建てるという触れ込みだった。まったく土地勘がなかったが、ちょうど中川の知り合いに不動産屋がおり、その人物に私たちが目星をつけた土地の鑑定をしてもらった。田んぼを埋め立てた土地だが、既に半年以上が過ぎていて家を建てるには問題はないし、値段も適切だということだった。双方の実家からも資金は援助してもらえる。康子によれば夜な夜な呑みに出かける私の品行を正しくきちんとすれば借財も返せるだろうという。沈思黙考。ならば家を建てるなぞ諦めるだけのことである。幾人かの人に相談すれば、今は列島改造論のあおりで日本中の土地が値上がり傾向にあるのだから、孰(いず)れ世の中が落ち着くまで、ここはじっと待つべしという意見もあれば、今後一層値上がりして、とても今の値段では手が届かぬようになるという両極の意見が相次いだ。私は晩酌の量はおろか、高来らと一緒に飲みに出掛ける回数も減らす積りは更更ない。折よく国分から博多大学での非常勤の仕事を頼まれて、翌年の春から出講することになって借財を返済する目途がついた。
広告先の会社に電話を掛けると、すぐにセールスマンが遣って来た。建売ではなく、注文建築でやってくれるという。私達は大まかな構想を伝えたうえで、一度具体的な見取り図のようなものを書いてみるということで話が纏まった。今のアパートは4畳半が二つと6畳間である。このところの建売住宅は4畳半の部屋が多い。ちまちまとした部屋が幾つかあるだけで、どうにも使い勝手が悪そうだ。部屋はどれも6畳と8畳間にすることにした。私たちは方眼紙に見取り図を描いてみた。やはり書斎は必要である。本棚は壁一面に拵えたいと思う。夕食が終われば私たちは額を突き合わせながらあれこれ考えを出し合っては、線を引いたり消したりした。土地は東側が道路に面していて、南北の左右は隣の敷地と隣り合わせだ。西側にはコンクリート造りの小川を挟んだ田んぼが国道までほんの少し伸びている。敷地は東西にのびる長方形となっている。家は長細い構えになりそうだ。玄関は自ずと東向きになる。玄関脇に仕立てた8畳間の和室に続けて、南北に延びる6畳の書斎を設(しつら)えてみた。居間と書斎の壁一面に書棚を造ってもらう。その続きの居間は食堂も兼ねることにした。14畳ほどは欲しい。台所はその居間の突き当たりの横並びにすればよい。玄関からその居間の入り口までの空間がホールになる。ホールの突き当りを風呂場にして、トイレはその手前に据えたため居間の入り口と向い合せになった。坪数を計算してみたら予定していたよりも大き目になってしまった。2階は玄関から直ぐに上れるように構想して6畳からなる二間とした。ここまで至るのに2週間程の日にちを要した。改めてダブルのスーツに身を包んだ建設会社の大柄な社長が先の若い男と一緒に遣ってきた。
「見取り図が出来たそうですので、一応拝見します」
こうした大きな買い物を経験したことのない私は、ソファーにどんと腰を下ろした社長の居住まいに圧倒されて、恐る恐る見取り図を差し出した。社長は苦虫を潰したような顔つきでじっと見入った。
「こりゃ、予定の金額では収まりませんですな。弟は建坪は25坪云うとったよぉですばってん、せいぜいのところ23坪が関の山ですたい」
若い方は社長の弟だった。私は専門家がそう言うのだから仕方ないだろうと思った。
「23坪の家じゃ狭くて駄目です」康子が毅然とした調子でそう言い返した。「それじゃ、書斎だって出来やしないじゃないですか」きっぱりとした物言いだった。
「奥さん、あれだけの土地ですし、今じゃ材料費も値上がりしとってですね、いくらうちのように自前で家ば建てて売っとる商売しよってもですな、こっちとしても精一杯のところですたい」
「でもね、この見取り図でも削れるだけ削ったんですよ。もうこれ以上は無理です」康子は譲らない。
「ま、この図面をお借りしまして、こちらで設計士に見て貰いますよって、そのうえで改めて相談することにしましょうか」社長はそう言い残して帰った。
「お前、随分、しっかり対応したね。驚いた」一言も口を挟めなかった私は康子のその剣幕に舌を巻くばかりだった。
「雲助の娘ですもん。商売の仕方は心得ているわ」
それから2週間ほどして社長が設計図を持ってきた。
「先日は、23坪って申しましたが、お宅の見取り図を参考に線を引いてみましたけど、23坪では収まりませんし、弟も25坪ということでお話していたようですから、居間と書斎のあたりを少し小さくして、25坪で描いてみました。ご覧になってください」
大まかだった私たちの線引きを元にほぼ期待通りの恰好の間取りに仕上げてきた。玄関から居間までは大きなホールとなっていてゆったり感がある。階段も骨組みがむき出しになったストリップ階段にすることでホールの広さ感が得られるという。書斎は書棚を含めて4畳になっている。食堂を併せ持った居間は12畳に狭められたが、致し方ない。後日改めて連絡することにした。
「2階の踊り場が殆どなくて狭苦しいのが難点だな」
「そうね。もう少しこの部分が広ければいいけど、無理なのかな。2階の収納が小さいのも気になるわね」
「でも、これでぎりぎりだって云ってたからな。風呂場は割と大き目だし、風呂桶もお前の希望通り、1.5人漕だっていうからゆったりしていいんじゃないか?」
「忘れてたけど、今度、社長が来たら、壁の事きちんと云ってね」
「何て?」
「壁はじゅらく塗りにするようにって」
「ジュラク?上野のキャバレーの名前みたいだな。何じゃ、そりゃ?」
「最近はね、じゅらくの塗り壁は高くつくから、塗り壁に見せかけた安い化学繊維の壁みたいなの使っているのよ」
「へえ、よぉ知っとるね。偉いな」
「仙台の家も何回か内装をして、大工さんからいろんな事教わったの」
康子は襖の桟や畳の縁についてもあれこれ注文をつけた。康子の住宅へのかなり細やかな注文に相手は脱帽した。当然のことながら最終的には目星をつけていた予算をはるかに上回ったものの、それで契約をすることになった。
夏休みを利用して大野が遊びにきた。2年生になっている。
「役人になることにしたようだな」
「そうなんです。大蔵省に入ろうかとも考えたんですけど、最近は国際法が面白くなってきてですね、外務省に的をしぼっとります」
「そうか、行く行くは外交官かな?それもいいだろう。ところで、今度、家を建てることにしたんだ」
「凄いですね。その若さでもう家を建てよぉとですか?」
私たちは設計図を見せた。
「よかですね。書斎もありよぉやなかですか。場所はどこですか?」
「もう少し先に行った次郎丸っていうところ」
「そやったら大学には歩いて行くという訳にもいきまへんな。僕の自転車使わんですか?」
「いいのか?」
「どうせ、使ぉとらんですもん。明日持ってきよります。ところで奥さん、猫欲しいって云ってましたよね」
「そうなの、タマちゃんは大野君の猫でしょ。私達の猫ちゃんが欲しいのよ。タマちゃんはこのところ全然来ないけど、元気にしてる?」
「僕が京都に行ってからおらんこつ、なってしまったようです」
「そうだったのか。それで、どこかに猫の当てがあるのか?」
「母の知り合いで猫を飼いよぉ人がおるんです。家が出来上がった頃に産まれればいいですけどね」
「私、黒猫がほしいの。お母さんにそう云っておいてくれる?」
翌日になって大野はステンレス製の軽いスポーツタイプの自転車を持ってきた。私はそれを貰い受けた。小さな荷台はあるものの、後ろに康子を乗せることは出来ない。これから新築しようとするその場所は散歩がてら歩いて行くには些か時間を要する。康子の自転車も必要になった。私たちは週末になれば自転車を漕いで建築現場に足を運んだ。北側にはすでに家が建っている。その日は日曜日だったので工事は休みである。私は設計図をもって家の土台となる基礎のコンクリートを眺めた。その基礎が見た目には思った以上に小さいのに驚いた。コンクリートの上を歩いてみて、その歩数を設計図に書き込んだ。アパートに帰って計算してみたら間違いはなかった。柱も立っていない基礎段階では実にこじんまりと見えるようだ。時には大工さんたちに差し入れが必要だろうという康子の意見で、日を見計らって棟梁たちにお酒を持って行った。
「あんまり見にこられんですが、よろしゅう頼んますよ」年配の棟梁に挨拶をした。
「来てもろぉても、なんも変わりはせんばってん、任しとってください」
棟上げには神主を呼ぶと余計に金がかかるというので、棟梁にお神酒を振ってもらった。
やがて屋根もかかり、骨組が少しずつ隠れてきて、家らしい体裁を見せてきた。書斎も近いうちに棚が備え付けられるという。
「大学の先生の書斎じゃけんな、しっかりした棚ば付けんといかんぜ!お前たちんごつ、週刊誌なんか並べるやのぉして、立派な書物ば載せよるけんね」若い大工に向かって棟梁が発破をかけた。
秋も深まった頃になって漸く家が出来上がって愈々転宅の日を迎えた。引っ越しは週末にした。何日も前から多田一家の面々がこぞって遣って来て準備を手伝ってくれた。当日の朝、電話機を外す直前に電話が鳴った。東京の檜山からだった。東京駅のプラットホームから電話を寄越したようで十分には聞き取れないものの、これから新幹線に乗って博多まで来ることにしたと言っている。これまで新幹線は岡山停まりだったが、この春に博多までレールが延びた。私は丁度引っ越しをするところだが、夕方には電話が繋がる筈だから博多に着いたら改めて連絡をくれるように指示して受話器を置いた。新しい家では書斎と居間の双方に電話機のコンセントをつけて貰って、そこに電気器具と同じようにプラグを差し込めば通話できるように手配してある。昼前に受話器のプラグを取り付けに新居の方に係りの者が来るということで諏訪がその電話機を持って一足先に出向いた。今日は長丘が車で来ている。康子は重要書類を詰めたバックを肩に吊るして学生にあれこれ指示を出し、運送屋がトラックに荷物をつけている間に長丘の車で一足先に新居に向かった。トラックが荷物をすべて運び出した後で笹岡らがざっと掃除を済ませて、直ぐに戻ってきた長丘の車で新居に向かった。私は大野のお古の自転車を転がしていった。運び込まれた段ボールには赤のマジックで番号が割り付けてあって、段ボールはそれらの番号に従って部屋に運ぶ段取りになっている。衣類などは後で康子が箪笥に仕舞い容れることにしていたし、本の並べ方は私の心積りがあるので荷を解かずにそれぞれ玄関横の和室と書斎に重ねてもらった。当面必要な食器を包んでいた新聞紙からはずして食器棚に並べるのだが、これも置き方は康子の指示通りにやらなくてはならない。「この皿はどの段に容れよったらよかですか?」「この茶碗は?」と喧しい。結局は納まりが付かずに食堂のテーブルに山と積み重ねられていた。夕方になって一応、皆が坐れるだけの空間が得られたところで、居間のコンセントに繋いでおいた電話のベルが鳴った。檜山だ。バスの乗り場と系統番号を教えて所定のバス停まで来るよう伝えておいて、頃合いを見計らって私が迎えに出た。
「やあ、やあ、久しぶり」檜山はバスから降りてきて開口一番こう言った。
「それにしても吃驚したぜ、突然こっちに来るなんて電話がかかってきたから」
「いやね、何てことないのさ。ふらふらしてたらさ、東京駅に来ていたんだ。さて、どうしようかなって思ってよ。お前のところに来てみようかということになったんだ」
「それにしても、風来坊みたいなことするな、お前も。ま、ちょうど引っ越しで学生たちも来てるし、これからひと騒ぎするから、丁度よかったかな」
夕飯は鮨の出前を頼むことにした。頭数を数えて鮨屋の電話番号を回した。横で奥稲荷が耳元に囁いた。
「先生、海苔巻も頼んでください」
奥稲荷は生魚が苦手なのだ。私は頷いた。最後にいなり寿司も追加注文した。奥稲荷は狐につままれたような顔をして私を見つめた。
まだいろんなところが荷物で埋まってはいるが、ソファーや食卓の椅子などそれぞれに坐る場所はある。何人かは床の絨毯に胡坐をかいている。檜山が電話をしたいと言い出した。
「あ、俺だけど。ふらっと東京駅まで来てな、新幹線に乗っちゃてさ、今、多田の所に来てるんだ…。うん、九州!大丈夫。丁度ね、多田が家を建ててさ、今日、その新しい家に越してきたんだ」大籠が檜山をからかおうと甲高い声を上げた。「え?ああ、学生さんがね、手伝いに来てるんだ。…うん、2,3日したら帰る」
学生がいるので突然に博多までふらりときた理由を尋ねる訳にもいかない。私達は出前の寿司を摘まみながら、他愛もない話に花を咲かせながらビールや酒を酌み交わした。酒はあまり強くない檜山はコーラなどを飲みながら専ら女子学生相手に話し込んでいた。
翌日は檜山に手伝ってもらいながら荷物を整理し、その合間を縫って授業に出掛けた。夜になれば私一人が酒を飲んでいる。檜山はやはりジュースだ。
「俺もさ、高校生の頃は当てもなく歩いていて、時たまお前の家に遊びに行ったよな」
「そうだな、俺が渋谷にいた時、あれは高校生の時だったな。日曜日にふらって俺の家に来たの」
「そうそう。あの時はさ、片道の電車賃しかなくてお前がいなかったら帰りは歩かなくちゃいけなかったのによ、そんな事も考えもしないで出かけたんだ」
「入谷の家に酔っぱらってきたのはお前が大学生の時だったかな」
「いや、大学院の頃。あん時はさ、同級生の家でしこたま呑んで、へろへろに酔っぱらっちゃって、どうしても家に帰れなくて。そんで、お前はどこかに出掛るって云ってたけどさ、おばさんがいるからいいや、なんてよたつきながら何とかお前の家に行ったんだよな。どうもお前だけじゃないな。突如として訪ねて行くのは。でも、あん時とは違うぜ、何かあったのか?」
康子は玄関脇の和室で衣類の片付けをしている。
「暫く前から、体調がよくないんだ。眩暈がしたり、冷や汗が出てさ。どうかすると何でもない時に心臓がどきどきしちゃってな」
「医者には診てもらったのか?」
「うん、自立神経失調症とか云われた」
「ふーん、そんな病気もあるのか。ストレスかな?」
「そうみたいだな。それで急に、お前の顔が見たくなってな」
「俺の顔はストレス解消用かよ?」
檜山は数日滞在して東京に戻った。途中でまた放浪の虫が起きないように飛行機を手配した。
師走となって家の中もほぼ整頓が済んだものの、私も走り出さねばならないような気になりかけた頃、大野の母親が電話を掛けてきた。黒猫を所望していたのだったが、産まれたのは白い猫とのことで、雄と雌のどちらがよろしいかと尋ねられて、雌猫を貰うことにした。
大野の母親が連れてきた時その猫は3か月になったばかりで何にでもじゃれついて、その仕草は何とも可愛くてならない。名前は「花子」にしようかと思ったが、いかにもありふれているので、「ナナ子」とした。それまで折に触れて康子が抱いていたスヌーピーの縫いぐるみはほったらかして、私たちはナナ子にかまけた。片時も離れることなく、散歩に出かける時には康子が抱いていく。ナナ子は身じろぎもせす、康子のコートの中に大人しくすっぽりと収まっていた。此れまでは長期の休みの期間は東京と仙台に出向いていたが、今度ばかりは家を開け放つわけにはいかない。正月は新居で暮らすことにした。転宅してテレビも買ったので大晦日の紅白歌合戦を見ることができる。その前のクリスマスに諏訪が遊びに来た。ナナ子を見るや諏訪は抱き上げた。赤子を抱くようにあやしてくれるのかと思っていたら、「ほんなこつ、ナナ子は小さかね」と言いながら、突然ナナ子に齧(かぶ)りつくようにして頭をすっぽりと口の中に含んでしまった。慌てて康子がナナ子を取り上げた。
「ナナちゃん、危なかったね。諏訪君に食べられちゃうと思ったでしょ」
ナナ子は何事があったのかと目をきょとんとさせている。康子は一生懸命ナナ子の頭を撫でていた。
矢継ぎ早に学生や小学生の晶子たちが入れ替わり立ち代わり遣って来るのだが、ナナ子は矢張りアイドルそのものだった。何にでもじゃれては転がって愛嬌をふりまいてやまない。だが、燥いで走り回っているうちに突如として、耳を前向きに立てて、尻尾を膨らませたかと思うと、やおら蟹のような横走りをして、カーテンに爪をたてて天井の方まで登り出すことがある。何の前触れもなくこの動きを見せるので、誰もが一瞬驚いてしまう。康子に言わせれば諏訪に食べられそうになった恐怖心からそんな動きをするのだろうということである。それでも普段は全く子猫そのもので愛くるしい。喉が渇けば未だにミルクをぴしゃぴしゃと舐めてはいるが、夕食は茹でた小鰺である。時に私の酒の肴の刺身を掌に載せて食べさせることもある。康子が造る出し巻き卵も好物の一つだ。朝は手作りの竹輪と決まっている。小鰺と竹輪は西新まで買い出しに行かなくてはならない。自転車で買い出しに行くのだが、その時は前輪の方に備えついたカゴの中でバスタオルに大人しく納まっている。私たちが猫離れしないのか、ナナ子が甘えているのかは判然としないが、ナナ子はいつだって私たちの傍らを離れようとはしない。二人して風呂に入ろうものなら風呂場までやってきて蓋の上で寝ている。ナナ子を私たちは猫かわいがりした。
家を新築したことで日頃から親しくしている先生たちがお祝いをしてくれることになった。新築祝いに瀬戸物などを貰っても康子はそうした物に対しては好き嫌いが激しいこともあり、それぞれ個別にいただくのではなく、幾つかのグループに分けて庭木を進呈してもらうことにした。城南のグループには梅を所望した。篠栗らには百日紅を頼んだ。国分の家に出入りしている植木屋さんを紹介してもらった。年配の夫婦がやってきて庭を眺めた。土を入れることから始めなくてはならない。既に四方がブロック塀で囲まれていて、庭に新しい土を入れるだけでも相当な手間がかかった。東の塀に沿って黒竹を植えた。ブロック塀なぞないほうが粋に思われる風情だ。西側には樫の木を植えて防風林とした。その手前に孟宗竹も植えてもらった。庭木が何本か植わって庭らしくなってきた。梅と竹が揃ったところで、此れでは足りないと植木屋さんがサービスだと言って小さな松を持ってきて、「これで松竹梅になった」と一人悦に入っている。物置が必要だった。康子は植木屋さんに和風の物置、それも屋根は木の皮で葺いた小屋を造ってくれないかと相談を持ち掛けた。植木屋さんは大工ではないが、物置くらいだったら何とかなるだろうと承知した。土台のコンクリート造りは知り合いの左官屋さんに教わったようである。床にセメントを塗る作業を終えた途端にナナ子がその上を歩いて足型を残してしまったが、そのままにした。記念になる。囲いの板に焼き色を付けるべく火にかけたら燃えてしまったので、焼き色はこげ茶のペンキを塗ったと言っていた。屋根は雨漏りを塞ぐべく何かを敷いてその上に杉の皮を葺いた。東西に半間開け放して、戸は付けない。そこまでは手が回らかったようだ。新しい家よりも立派な出来となったような気がする。西側の田んぼの方から眺めてみるに、焼いて焦げ目をつけたように見える囲い板、屋根の杉の皮も風情があって良い眺めである。自転車を置く前にそこで一献してみた。ローソクの灯りでナナ子相手に飲むのも風情がないでもない。
暫くしてから、新築祝いをくれた諸先生を交互に招いて一盞することした。康子の本領発揮となる。一週間ほど献立を考えて、その何日も前から買い出しに出かけた。生ものは当日になってから渡辺通りの市場まで買い出しに行った。玄関横の和室で一盞が始まれば料理を一品づつ台所から運んでこなくてはならない。一人では勤まりそうにもないので、この日は笹岡と高取に手伝いを頼んだ。高取は料理には手を出さないでいたが、それぞれの料理の盛り付けから順番まで、こうした懐石料理の手本と心遣いを学んだようである。一通りお客さんをした後で皆さんご帰還となれば、すでに食事を済ませている高取らを相手に私は2次会となる。和室には入らせないようにしていたナナ子が私に纏わりついて離れない。
「ナナ子ちゃん、先生のおらんで淋しかったろうね」高取がナナ子の顔を覗き込んでこう言った。ナナ子はしばらく私の手にじゃれついていたが、又もや背を丸めて蟹歩きしだしたて一気にカーテンを上っていった。
「わっ、吃驚した!」幾度も見慣れている笹岡が言った。
「ナナ子ちゃん、なして、何の前触れもなく、こう急にカーテンに登りよるとですかね?」
「諏訪君に食べられるそうになった恐怖感からよ、絶対。まったくあいつは碌なことしないんだから。犬猫の精神科があるんだったら診てもらいたいわ、ほんとに」
「精神科とは関係ないんですけど、去年のお引越しの時に先生のお友達がいらしたじゃないですか」笹岡が言った。
「ああ、檜山だね。中学校以来の付き合いなんだ」
「お聞きしたらあの方、ふらりと東京駅に来てそのまま新幹線に乗って先生のところにいらしたって仰ってましたよね」
「そう。笹岡さんの云う通りたい。わたしもあのとき吃驚しましたもん。いくら何でもふらって来られる距離じゃないですもんね」
「まあ、男って者は彷徨癖があるもんよ。一所には留まれんてことかな」
「そうなんですか?先生もそういう気持ちっておありなんですか?」
「僕はね、とりわけその傾向は強いね」
「わたしなんて福岡生まれの、福岡育ちですし、産まれたとも育ったとも今の家ですけん、よぉわからん。笹岡さんかて、博多弁はよう使わんけど、福岡の生まれやもんね」
「うん、私もここで生まれたけど、なぜか言葉遣いは博多弁にはなっとらんね。両親の影響かな?」
「無理に博多弁使わんかてよか」
「私もね、仙台生まれの仙台育ちなの。東京で暮らしたのは2年くらいよ」
「奥さん、それでよく博多まできんしゃったとですね」
「そりゃ、僕の魅力に引っ張られたのさ」
「そんな事ないけどね…」
「そんな、きっぱりと云わんかてよかろうもん」
「でもね、まったく知らない土地に、それも旅行じゃなくて移り住むのって、不安もあるけど未知の希望もあって楽しいわよ」
「僕もね、箱根から西に来たことはなかったんだ。でも、子供の頃から親父の都合であっちこっち引っ越していたな。小学校の頃に2回、中学生の時に2回そして大学生になって1回だから12年の間に5回引っ越しをしたな」
「先生、引っ越しっていえば、先生のお友達は「コス」というコトバをお遣いになられてましたね」
「君はよくコトバ遣いに気がつくね。そうなんだ。東京ではね、「引っ越す」とは云わないで「越す」って云うんだな。気短な江戸っ子の典型的なことば遣いかな」
「ドイツ語では「引っ越す」ってどう云うとですか?」
高取の質問に答えて、さらにその語に纏わる前綴りの講釈を一頻り始めたところで、急にナナ子が横向きに走り始めてカーテンにへばりついた。
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